髙藏寺の由緒

HISTORY

縁起

高蔵寺の開創は用明天皇の御代、6世紀までさかのぼる。
徳義上人がこの地で修行中、ある日雷鳴がしきりに起こり、里人たちは世の変化の現れと恐れていた。上人はこれを妙縁として、一人山中に籠られた。そこへ老翁が現れ、「衆生済度のために飛来した観音をここに安置した」と古木を指し、姿を消した。上人がその梢をみるとそこに四寸(約12cm)ほどのお身丈の観音像が安座していたという。徳義上人は里人とともに堂宇を建立、この観音像を安置したことに始まる。

はるばると 登りて拝む 高倉や
富士にうつろう 阿娑婆なるらん

当山開基と伝えられる徳義上人が詠んだものと言われ、高倉とは高い床の上に建てられた御堂と言うことです。「はるばると登りて拝む」も、観音堂(本堂)の高いことを言っております。「阿娑婆」とは「阿」如来・「娑」菩薩・「婆」明王を指しています。高倉観音にて西方を眺めると霊峰の富士が眼前に望め、そこに如来・菩薩・明王が映し出されて来る、という意味です。つまり、観音様に祈願すると、如来や菩薩や明王がすべて観音様に協力して導いて下さっている、ということを説いています。「はるばると 登りて」とは、観音様に参拝に来ている方々もそれぞれに大変な苦労をして来ています、その苦労や信念が尊いのですよ、それに参拝に来る方は、家族の協力や巡拝のなかで多くの人々との協力を得て、実現できているのですから、そのことへの感謝の気持ちを忘れてはなりませんよ。ということも語っています。

家内安全 息災延命 諸願成就の為
無魔満願を御祈りします

山主

鎌足の里 藤原鎌足公生誕の伝説が残る縁結び子授けの観音

日本武尊が弟橘媛を偲んだという伝説で知られる「恋の森」木更津太田から、旧鎌足村高倉(矢那)への一本道、山狭の集落を抜ける頃、左手に木立の茂る、山が見えてくる。鬱蒼としたモミや杉の古木に囲まれた古刹、それが平野山高蔵寺。

高蔵寺には藤原鎌足生誕にまつわる伝説がある。この里の有力者だった猪野長官(いのうちょうかん)という人物が、40歳あまりになっても子宝に恵まれず、ここの観音に願いをかけたところ、予与観(しょかん)という名の一女を授かった。心清く人に親切な素晴らしい娘に成長したのだが、器量が悪かったため、良縁がなく嘆いていた。彼女は自分が正を享けたいきさつを父から聞かされ、自分もこの観音におずがりした。すると「鹿嶋に行って、日天を拝みなさい」との夢告があり、男子を授かった。これぞ「鎌子」、後の藤原鎌足(614〜669)その人であると言われている。
鎌足はその後、この観音を深く崇拝し、七間四面の本堂や阿弥陀堂、三重塔、鐘楼などを建立した。本尊は、その後行基が訪れた際に刻んだ像で、徳義上人が祀った像は頭部の中に納められている。